エンタメは愛だ!

感想書く日記的なブログのつもりです

日本人キャストのミュージカルを見るファンとして

リトルマーメイドの実写映画のキャスティングで色々な意見が飛び交っているのが目につく。あまりこういったセンシティブな話題を書きたくないんですけど、ちょくちょく帝劇に足を運んでいたミュージカルファンとして、少し思った事を書いておきます。

 

人種問題に関しては日本とアメリカでは根底が違いすぎるので、日本に住んでる以上、有識者然として語る事はできない問題だと思ってます。今回のリトルマーメイドのキャスティングの良し悪しを語る気はないのですが、映画のキャラクターと俳優という問題は個人的に思う事がありまして。

 

日本でミュージカルを頻繁に見に行くと、特に東宝演劇を多く見ようとすると、日本オリジナルより海外の有名なミュージカルの日本版を見る機会が増えるように思います。(完全に個人の偏りによるモノですけどね…)1、2回ほど海外キャストの来日公演も見ましたが、歌声はともかく、英語ダメダメ人間には字幕を追うので精一杯になり、中々集中できなかったので、日本人キャストが日本語に訳されたナンバーを歌い、日本語で演技してくれるのは非常にノイズが少なく、海外の戯曲に触れられる機会としてすごく重宝します。

 

畏まって理由を書きましたが、正直な所、日本で見るエンタメは日本人が日本語でやるのは当たり前のような所があり、そんな事は他の国に行けば、その国の母国語になるだけの事だとは思います。

だから日本人がフランス人のマリーアントワネットを演じていても日本人からしたら何の違和感も無いわけで。最近韓国ミュージカルも盛り上がってるので、韓国人の方も同じだと思う。

 

ただ、日本人もアメリカ人も韓国人もだと思うけど、何故だか映画など映像作品になると、登場キャラクターと俳優の人種と母国語が合わなくなった瞬間めちゃくちゃ指摘する。他人事のように言うけど自分もよくある。なんか金髪のヅラ被ってカタコトの英語喋ってる日本人俳優出てきたw白人の方キャスティングすればいいのにwと思う事はある。

でも冷静になると日本のミュージカルは他国の人種、言語で書かれ演出された演劇を全て日本人、日本語に調整したモノを当たり前のように見ている。僕もそうである。(当たり前だと思えない人が多くて客層が固定されてるとか、そういう問題があるかもしれないが今回は見ない事にします)

 

これは何なんだ、とここ数年のポリコレ問題の度に思ってました。多分何も考えてないからこう問題になるんじゃないかと。

だから自分なりに考えてみて納得してみようとしてみたんですが、非常に難しい。書くの躊躇うくらいにはよく分からない。それでも整理も兼ねて書いてみますが。

 

まず1つ目はそもそも俳優の人種問題という点においては、その国の歴史によって抱えてる内容がまちまち過ぎる。日本における黒人の差別とアメリカのそれとは全く意味合いが違う。とあるYouTubeの動画で、黒人の方がアジアに暮らして感じた事を語ったインタビューを見たが、「アメリカの差別は、アジアで感じる差別とは違う。アメリカでは黒人というだけで日々の生活の安全が脅かされる。アジアの差別は差別というより、見た事がない人種への無知や間違った認識であり、正す事ができる。アジアではアメリカで感じることのなかった安心安全を感じる(超要約)」とまで黒人の方が語っていた。これが正しいとするなら、アメリカの映画業界で起こっているキャスティング問題は、日本人の推測だけで語れる領域ではなく、少なくとも日本人が「ポリコレ配役だー笑」、などといってはいけないレベルだと最近感じています。

 

次に俳優が役を演じる事と物語のキャラクターに関して。これは非常に難しい。日本のアニメを見ていると普通に外国の方々が日本語を喋ってくれるし、それでいて彼はアメリカ人だ、と視聴者はちゃんと受け入れる。ミュージカルも例えばベルサイユの薔薇であれば、オスカルとアンドレはフランス人でありフランス革命の時代を生きているが、それを日本人キャストが日本語で演じて感動するのである。そこに、フランス人がやらないとダメだ、という批判はほぼ聞こえない。(聞いてないだけかもしれない。そういう所の不安が解消されないから書いていて怖い)

ただ個人的に本当に申し訳ないが、映画でベル薔薇を日本人キャストでやったら笑うと思う。

でも何故か映画やドラマなどの実写映像作品にはそういう力があると思う。キャストと作中のキャラクターがどちらかによらない。シュレディンガーの猫の様に、俳優本人でもありキャラクターそのものでもある。リトルマーメイドの件もそんな気がする。俳優は黒人。キャラは白人。だから違う。中々黒人の人がアリエルを演じているだけ、とは言ってくれない。

もちろん見る人が何を重視しているかによって意見が変わってしまうが、黒人の俳優さんが白人のキャラクターを演じてもいいんじゃないかというのが僕の中にはある。少なくとも日本人としてはその事自体を否定してはいけないんじゃないかと。日本人はみんなオスカルを演じてはいけない事になってしまわないかと思うんですよね。

アメリカに住んでいるわけではない、ただの日本住みの日本人でしかない僕には分からないが、シカゴを米倉さんがやった事例もあるので、アメリカでもミュージカルで別の人種の方が演じる事が、絶対ダメって事も無いはず。

だから少なくともリメイクなんかの映画作品なら俳優の人種が変わる事はいいんじゃないかと思わなくもない。

 

これだけ書いておいて最後にちゃぶ台返しみたいな事言っていますが、書きながら考えいて思ったのが、映像作品の強制力みたいなもの。ミュージカルを生と配信で見る様になってより顕著になってるのが、カメラで撮る事の力の凄さかなと思います。

映画やドラマって俳優の演技力が大事だと思ってたんだけど、良くも悪くもそれを上書きする程の力をカメラって持ってるんじゃないか。

構図とか撮影処理とかじゃなくて、もっと単純な寄りとか引き、クレーンとかティルトとかそういうの。なんだったらワンカットっとか、ショットとか、映像が途中で切り替わる事自体凄い暴力的かも。

ミュージカルの生観劇って観客がそれぞれカメラマンだと思ってたんだけど微妙に違うんじゃないかとこのブログ書いていて思いました。自分で見たいモノを自分の目で見るのと、他人がコントロールしたカメラで撮られた映像を見るって、全然違う。当たり前の様でこれ凄く大事なんじゃないかなと。自分の目で見てるモノの情報は実はメチャクチャに多いし、見えてるけど見てないみたいなものがある。境界が曖昧。無限に続くんじゃないかという連続性がある。でもカメラは、画角に写ってるものが全てで、見ないものは見えない。見えてるものは嫌でも見える。この強制力は観客に曖昧さをなくさせるんじゃないかと。そうすると写ってるキャラクターは生の演劇以上に曖昧さが無くなるんじゃないか。肌の色の違いもノイズになっちゃうんじゃないかと。俳優が演じているという事実さえカメラに、監督の視線に消されてしまうんじゃないかと。

なんか雰囲気だけ書いたけど、全然言語化出来てないな。これは別の機会に考えます。

 

長くなったけど、とにかく個人的にはなるべく俳優が演じているという事象の方を大事にしたい。というお話でした。演者の人種問題が無くなる日が来る事を願ってます。

 

 

 

 

 

 

 

 

ロボットアニメ再興の為の考察その1

○何故ロボットアニメが好きだったのか

 

突然ですが、ロボットアニメが大好きだった幼少期を過ごし、今尚ロボットアニメな好きな私が、昨今のロボットアニメ衰退に嘆き、勝手に人気再燃しないかと苦心する過程を書いていこうと。そしてシリーズ化してしまおうという、自己満足な内容を進めてみます。まずは自分が何故好きだったのかを振り返るところからスタートしてみます。

 

 

・あの頃見てたのは

91年生まれの私は、幼少期は特撮アニメを見て過ごす時間が多く、特にロボットアニメが大好きでした。家にはロボットモノのおもちゃが多くあり、ガチャガチャ、擬音を発しながらごっこ遊びをしておりました。

それを考えると、当日の自分が映像作品が面白かったのか、おもちゃが面白かったのかは定かではないですが、今の振り返るとこの2方向から考えるのが良いのではと思いました。

当時は、勇者シリーズトランスフォーマー(特にビーストウォーズ)、アナザーのガンダムSDガンダム、マイナーだとリューナイトなどの等身低めのロボット、そしてスーパー戦隊の超合金が、主に見たり買ったりしてた作品でした。

今思えばごっこ遊びだけでなく、変形や合体するおもちゃほど遊びがいがあった気がします。変形機構や合体機構を弄ってるときはロボットモノ特有の高揚があった気がします。

プラモで作るという感覚はもっと後の、中学以降な気がしますし、個人的にプラモは壊れるんじゃないかとガチャガチャできない気がするので今も苦手かもしれません。

ごっこ遊びといえば、動かしたり技を真似したりする訳ですが、これはおもちゃの機構を越える想像の部分であり、妄想の部分ですね。これは結構重要で、ホビーアニメは、友達という条件が必要になりやすいですが、アニメの再現をルールや勝敗で出していくんじゃないでしょうか?

何が言いたいかと言うと、アニメのかっこいい動きや必殺技をおもちゃで再現はできないんですが、ごっこ遊びという妄想はそれを可能にする訳ですね。(最近好きな身体論的話では所謂模倣なんですが、この辺は別の機会に)

 

ここから言えるのは、僕に限って言うとロボットアニメの楽しみ方の初期は、アニメを見てカッコイイと思った動きをおもちゃで模倣する楽しみ方だったと言えそうです。これは所謂戦闘シーンやおもちゃのCM、果てはデザインとシナリオの展開にも関わってきて、富野さんが嫌いだと言い続けて来たメーカーとの戦いの流れを思い出します。とにかく幼少期は玩具宣伝アニメを純粋に消費していたわけです。

 

・おもちゃを買わなくなってから

子供は残酷なので興味はコロコロ変わります。周りの影響も大きいですね。かく言う私も小学校中学校と年を経るごとにロボット玩具は買わなくなります。ではアニメを見なくなったかと言うとそうでもなく。もちろん作品は減りましたが、ロボットアニメは減りましたが、SEEDなんかのガンダム、特に富野ガンダムエヴァなどはよく見るようになります。そうしてプラモデルなんかも手を出す訳ですが、大きな変化としてごっこ遊びは減ります。やらないに等しいです。だからおもちゃが売れないとロボットアニメは衰退するんだー。

と言いたいのですが、2000年前後になると話が変わります。専らゲームばかりしていたゲーム少年になっていたからおもちゃを買ってないと言えます。そしてゲームで何をしてたかというと、スーパーロボット大戦ジャイアントロボを育成し、エウティタでキュベレイを操作してニュータイプになりきっていたわけです。これはごっこ遊びの派生であり、カッコいいシーンの再現がいつでも見れるゲームです。となると、アニメのカッコイイシーンはそのままにごっこ遊びのステージが、玩具からゲームになったとも言えます。

そしてより顕著なのはキャラに興味を持ち始めることです。所謂キャラ推しであり、ストーリー上あんな事するあのキャラが許せないとかそういう感想が増えました。つまりただのごっこ遊びだったロボットアニメが、鑑賞というフェーズに入る訳です。アニメを見て何かを感じようとするわけです。そして、キャラに感情移入するのです。

 

・興味の行き着く先は

中高時代を過ぎ、大学社会人へとなりますが、この辺り大きく変わるようで根本的に変わりません。SNSが出来たとしても、発信するより情報収集が多いのは、学生時代発信してなかったからでしょう。アニメもゲームも続けています。なんなら給料を手にして、辞めていたおもちゃ収集を復活させるくらいです。ただなんだかどれもが分離している気がします。アニメは見ますが、アニメで見た作品のゲームを必ずするかと言われればそうでもないし、ゲーム、アニメ、実写作品、舞台に小説、そのジャンルで面白いものを探してる気がします。暇な時間はYouTubeを見たりしてますが、YouTubeに上げないのでこれも大して影響ないでしょう。そう見ると、メディアに縛られず、またそれ単体で面白ければいいとなる事も増えます。そしておもちゃは手頃なグッズに変わりはしましたが、置いて愛でるだけの日々です。極め付けは、この作品はよく出来てたや、映像が良かったなど、作り手側を考えていくことが増えました。自分で作ってないですが、実際作って子供に見せているのは大人が多いのは間違いないでしょう。

 

・まとめると

そうしてまとめると僕の興味の対象は、完全に排除されてはないが

1:ロボットへの興味とごっこ遊びの模倣

2:キャラへの感情移入

3:制作側への興味考察

という変遷がある気がしました。

変遷というか足されていくと言った感じならいいのですが、どうも初期のごっこ遊びは歳をとるごとに無くなっていく気はしています。

 

長くなったので一旦ここで締めて、この変遷の三要素を考えて行くのは別の機会にしようかなと思います。

ミスサイゴン感想〜精密な対比と社会情勢、そして古典へ〜

ミスサイゴン、コロナ禍で公演がままならない状態でしたがなんとか2回観劇出来ました。(お陰で育三郎トート当たりませんでしたが。これも巡り合わせ)

感想まとめます。古い作品ですが一応ネタバレ有りです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミスサイゴン。タイトル通り現在のホーチミンが舞台、とも一概に言えないなんともグローバルな作品。ただ原作の無い作品で、第二次大戦後のオリジナルとして大ヒットしてる貴重な作品。レミゼエリザベートに比べて時代背景が現代史。

ベトナム戦争末期、渡米を夢見るエンジニアが身寄りをなくしたキムを自分の経営する娼館にスカウトするところから話は始まります。戦時下特有の軍人と娼婦の狂乱、キムと恋に落ちるアメリカ軍人クリス。渡米の為のビザを求めるエンジニア。全てを米軍撤退という事実が引き裂きます。ベトナム共産国家となりサイゴンホーチミンと名を改め、歴史が変わっていきます。段々今の我々も知る情勢に。そんな中でも、戦争を生き抜いたエンジニアは渡米を諦めず強かに行動します。キムもクリスとの子供を守るため国を裏切ってでも生き抜こうとします。所謂母は強しってやつ。そんな2人は己の目的の為手を取りホーチミンを出てバンコクへ。一幕終了。あれサイゴン出ちゃったと思ったら、二幕はアメリカとバンコクが舞台。まぁ登場人物的に社会主義国で勝手は出来ませんから仕方ない。

戦争孤児を支援するアメリカがもたらしたキムとその子供の報はアメリカに戻って妻を得たクリスにとって吉報か悲報か。戦争の因縁に決着をつける為妻とバンコクを訪れる事にしたクリス。そんなクリスと会いアメリカで幸せに暮らす事だけを夢見たキムはバンコクで再会…とならないのが何とも言えない話ですね。結局本人たちが会う前にキムはクリスの妻に会ってしまい、子供の邪魔にならないよう自ら命を絶つわけで。その死に際にしか再開できない所で話は枠を下ろします。

 

話だけで言えば幸せな人生を夢見たサイゴン在住の人間達が、アメリカ(本当は社会主義対資本主義なのでアメリカだけじゃ無いんでしょうが)にたどり着く前に夢破れる話。その中で強く生きる人間讃歌と非情な社会格差が浮き彫りになる傑作だと思います。夢を支えに幸せな暮らしを作ろうとするキムと夢を手に入れる為に必死に生きるエンジニアは、似ているようですが、夢を支えにしてるだけでゴールでは無いキムと夢自体がゴールになりつつあるエンジニアは夢の性質が真逆に感じました。戦争終了後のアメリカのクリスとホーチミンのキムは生活が真逆であるのもいい対比ですね。男と女、支配する側とされる側、細かい所まで対比が綺麗な舞台だったなと思います。中間層がいない話ですね。ただ今のご時世だからなのか、決してアメリカが正義とならないのも上手いなと。きっと当時からあったんだろうと感じられるアメリカ批判が滲み出てるようでした。特にエンジニアの見せ場である、アメリカンドリーム。制作発表などで聞くと楽しそうなナンバーですが、劇中では虚しさが広がるナンバーで、否が応でもアメリカンドリームの限界を感じます。奇しくも現在、アメリカが世界の警察として覇権を取らなくなった情勢に重なります。

 

ただそろそろこの作品も古典になりそうだなという感想です。というよりミスサイゴンが描いた問題が引き起こした新たな問題に直面しているのが現代かなと。この冷戦化で提示された資本主義的成功も豊かな結婚も、本当に幸せなのか。ブイドイを生み出した戦争ではなく、ブイドイとして生まれてしまった子供、戦争のせいで貧困となった子供、親達の失敗の時代に生まれた子供の幸せとは?というのが現代の問題かなと。生活していく上での問題は歴史と切り離せないはずなので、古典が不要とは思いませんし、古典から学ぶことは非常に多いですから、ミスサイゴンが傑作なのは変わりませんが、この次の世代の傑作が出来るとさらに嬉しいな。というのが今の僕の感想です。

 

まだまだミュージカル鑑賞熱は尽きなさそうです。楽しみが増えて嬉しい。

GレコV感想〜もしかして…〜

Gレコ五部作目見てきました。これにて完結。感慨深い。がしかし、なんか5部作目テレビの時とあんまり感想が変わらない。逆になんで不完全燃焼なのかはわかった気がするのでそこを書いておこうと思います。

 

 

 

 

Gレコは富野作品の中でも異色だなぁと思ってたんですけど、その主な理由として、主人公達が闇落ちしないように周りの大人や先輩が支えるんですよね。多分これほぼ初めてだと思うんですよ。しかも全部周りの支えが成功するんですよね。

ランバラルやマチルダさんを目の前で亡くしたアムロやフォウを亡くしたカミーユのように、支えになりそうな人は死んでいって、それを糧に良くも悪くも主人公が成長する事で話が進んでいく気がしてます。ただGレコって人を殺したり、肉親が死んだ事を悲しんでも周りで支えてくれる人が沢山いて、その人達は死なないんですよ。それが悪いんじゃなくて、そのシチュエーションを使い切って無いというか。今までの富野作品の活劇の中でそんな演出や展開がほとんどないんです。でもGレコは往年の富野演出なので、人の死とキャラの感情の変遷、成長と視聴者の感情が噛み合うことがほぼないんですよね。ベルリが闇落ちしない理由はいいんですけど、そのせいで名前ありの敵キャラを殺した際の視聴者のモヤモヤがそのまま残るんですよね。死んだ、で終わっちゃう気がします。ベルリは周りの支えで少し乗り越えてるみたいなんでその後あんまり表に出さない。タチが悪いのは完全に立ち直らないんです。Zガンダムの劇場版みたいに、明らかにカミーユにストレスは溜まるんですけど、ファとか周りの支えで最後闇落ちしないで済むのと似てるんです。似てるんですけど、カミーユは常にイライラしてて、危ういんです。でもベルリは周りのサポートも手厚いしどうも賢そうなキャラなんで、親に心配かけたくない子供のように上手にストレスを隠してるんです。それを献身的に支える人が多くて、視聴者からみると、「あれベルリ君大丈夫そうね」と思える。なのに突然戦場でトラウマが出る。それを4、5人でメンタルケアするんです。書いてる事は真っ当に見えるんですけど、見てるこっちは乗り切れないんです。だって人殺しをやってるんですから。

キングゲイナーみたいにみんながみんな戦争とか人殺しと言わずに任務を真っ当してくれてるといいんですけど、今回マスク大尉がしつこく戦争である事、人殺しである事をベルリと視聴者に思い出させてくれるんですよね。その度にメンタルケアが(以下略

なんでわざわざ書いてるかというと、これが今作のテーマじゃなさそうな事です。Gレコのテーマは富野さんのインタビューを信じれば行きすぎたテクノロジー、科学信仰への批判であり、ロマンだけの宇宙開発の否定です。地球を大事にです。そしてガンダムから続く反戦の意思は残ってると思います。それでも戦争をする愚かな人間、ってのは変わってないと思います。だからこそ、今回のメンタルケアの手厚さは視聴者に戦争で散っていく命の尊さ、命を簡単に奪う戦争の残酷さを和らげてしまっているんですよね。

メンタルケアといえば、シンエヴァでシンジくんのメンタルケアをしていましたが、農村パートにどれだけ尺を使っていた事か。今回のGレコはこの農村パートに15分おきくらいに戦闘シーンを挟んでいたようなものだと思います。そんな構成のシンエヴァだったら、シンジくんが絶望から立ち直れなかったはずです。

でも富野さんだってキングゲイナーで、最後闇落ち主人公をラスボスにすることで、このメンタルケアを使って成功しています。

これを考えると、今回のGレコは戦争をやるにしては作り手が優しすぎたと思います。富野ガンダムイデオンなどはその語種な残虐さこそが売りであり、富野さんの作家性が出た部分だったと思います。

Gレコはテーマは戦争では無いです。エネルギーや技術発展というテーマに付随して戦争してましたが、戦闘描写の持っていたテーマ性はガンダムよりキングゲイナーザブングルに近いと思います。ただGレコはガンダムでした。戦争しないといけなかったんじゃないかと邪推します。シナリオや設定のテーマとガンダムという作品自体が持ってしまったテーマが相反していたように思います。

だから恐れずもう一度書いておきたいと思います。Gセルフガンダムフェイスじゃなくても良い作品だったらどれだけ良かったかと。もっと面白くなったと思いました。

 

最後にさらに誤解を恐れずに言うとすると、安彦さんがインタビューで、ロボット物やガンダムの縛りのない富野さんの長編を見たいとおっしゃっていましたが(CONTINUEのGレコスペシャルのインタビュー参照)、戦争とか争いは無くせないんじゃ無いかと。戦わない人間同士の交流は富野さん苦手なんじゃ無いかと思ってしまったんですよね。少なくともGレコは技術が人に与える影響は類を見ないほどに提示できてたと思うし、色々考えてて面白い世界観を見せてくれたと思っています。だけど、アイーダとベルリが実は兄弟だったとか、マニィがルインを思い続けて行動してるところとか、人間関係の話がいまいち乗れなかったと言うのが正直なところです。これロボットとかSF要素を除いて流行りの異世界転生のゲーム的ファンタジー世界観でもアイーダとベルリの出会いや冒険、関係やオチを置き換えられると思うんですけど、多分圧倒的に面白く無いと思われます。ぶっちゃけアイーダさんの成長はムタチオン関連だし、ベルリは最後世界を見に旅しちゃうし。あの恋した相手が兄弟だった設定活かせてましたか?なんかSFテーマが投げかけてくる問題提起が大きすぎて、霞んでた気がするんですが。

 

ダメだ止まらないのでこの辺にしておきましょう。

願わくば自作も見れるなら凄く嬉しいです。少なくとも本人が嫌だって言うんだからガンダムじゃないといいです。ロボットアニメでいいからガンダムじゃない新作が見たい。

GレコIV見てて思ったこと

先日GレコIVを見てきました。

大変内容に手が加えられており、TVシリーズから大きく印象が変わる作りとなっておりました。

感想に関しては折角なのでVまで見てからまとめるとしまして、今回はちょっと思った事をネタバレはほぼなしで書いてみたいと思います。

 

僕自身富野監督は信者の類なくらい好きなのですが、Gレコは中々に取っ付きにくい作品だったと思っており、手放しに好きだと言えなかったのが正直な所です。ただ劇場版1〜3において手を加えられた事(何より繰り返して見たこと)によってかなり、整理され、以前より期待していたところでした。

結構期待値の上がった中での今回の4鑑賞だったわけです。が、TV版の時に戻ったなという印象でした。

それが何故かも纏まってきたので、今回はその引っ掛かりをまとめておこうかなと思います。

 

1:ジット団に関して

今回の4の前半、このジット団が出てきた事でTV版を見ていた時の頭にハテナが浮かぶ感じが再燃しました。そこで思ったのがGレコ混乱の最大の要因はこいつらだなと。

∀ガンダムにおいてラスボスであり後半の敵勢力としてギンガナム艦隊が居ます。こいつらも言い方悪いですがポッと出の勢力ですが、理由は単純であり、戦闘要因だから闘うのだ、とういう一言で済みます。キャラも濃いですしラスボスとして存在感を遺憾なく発揮して話を掻き回します。そして何より話の主軸はディアナ様であり、ディアナ様の行動がストーリーを引っ張ってました。

ところが今回のGレコのジット団はギンガナム艦隊の様なポッと出の後半の主要団体でありながら、非常に複雑で重要なポジションとなっております。

まずベルリ達海賊が地球に急いで帰らなければならい理由になる事です。ジット団がレコンギスタで地球圏に戻り始める為、後を追ってベルリ達も帰るのです。つまり物語そのものを加速させる要因をジット団が担っているわけです。しかしそんな大事な団体が2、3話しか出てない状態で動き始めてしまいます。レコンギスタの動機や各人の思い、それに対する主人公の思いが十分描写される尺があったとは思いません。そして今回の劇場版においてもここの補強はほぼありませんでした。このポイントは後半、ラストに至る上で重要だと思います。ここの描写不足は視聴者が脱落しても致し方ないと思われ、逆にここの補強ができるだけで読解が非常に進む、かなり惜しいポイントだと思いました。

 

2:登場人物が説教している事が未来の事

Gレコが受け付けにくい最大の要因がこれでは無いかと思うのです。まず基本説教臭いセリフが多い。それは作中キャラ同士の言い合いが、問題点を指摘しあっているようなものが多い印象です。それだけならまだいいのですが、内容がエネルギー問題やら地球を捨てる捨てないやら、現代からかなり未来の話なのです。これに関してはずっと富野監督がインタビューで「未来を作る次の世代への種蒔き」だと言い続けていますので批判というよりただの事実確認なのですが、お話としては非常に見辛いのです。確かに設定好きな人もおりますが、基本視聴者は物語、特に人間の感情の遷移を見ますから、地球環境や技術の使い方の、謂わばイデオロギーの対立のみで映像作品を見続けてもらうにはかなり忍耐を要する気がします。特に今回ベルリの感情が飛び飛びに見える(落ち込む時と元気な時の中間の感情の描写が少ない)ので、視聴者が安心して追える感情の持ち主が主人公ではないのです。なんならいない可能性もある。人殺して追い詰められてたのに、次のカットで最大限明るく振る舞ってるのが、ノイズになるレベルで差が激しいと感じました。これはかなり視聴の難易度が高いのではと思っています。話題にしている問題がもう少し直近の、5年10年くらいの問題ならこの構成でもいい気がしますが、SFガジェットを自分なりに噛み砕いて理解し、その問題点を把握してから物語を見ないといけないのは、「面白くない」で片付けられてしまうのも無理はないのかもしれません。

 

 

以上がGレコIVを見て感じた事でした。次作で完結ではあるので、そこでどういう印象になるかが1番楽しみにしているところです。個人的には面白いポイントが見つけられたので、TV版とは違った感想が5部作通して感じられたら嬉しいなと期待して、ラストを劇場に見に行こうと思います。

 

劇場版輪るピングドラム前後編 感想 〜くるくるまわる「愛してる」〜

前編後編一夜で一気見してきました。

幾原監督好きとしてこの上ない至福な一夜だったなぁ。朝4時フワフワしながらやくしまるえつこさんの主題歌聴きながら帰路に着きました。

なんかもう野暮な感想は要らないんじゃと思いつつも、せっかくなんでいつも通りの取り留めのない感想は書き記しておこうと思います。

 

以下ネタバレありで感想

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近山田玲司ヤングサンデーなるYouTubeチャンネルを見てまして。TV版のピンドラを絶賛されており、その考察解説を拝見させて頂きました。監督と同世代だからかの中々なシンクロを見せており非常に濃ゆい考察があり、勉強させていただきました。(クラファンも参加されてましたね)

そのチャンネルで見捨てられた子供達に関して解説されておりましたので、子供ブロイラーで透明になる等の件はヤンサンにお任せして、僕はやはり「愛してる」にフォーカスしつつ感想をまとめようかなと思っております。

 

まず、前編を2回、後編を1回見てきました。結論としてはTV版の続編の側面も持ちつつ、TV版の円環を補足する新規カットと言った側面も持ち合わせる、という中々にトリッキーな作りだと言っていいでしょう。正直普通の映画とは言い難いと思いますが、元々テレビシリーズだったものを、壊さず、なんなら更に一段上のステージに上げたような作品となっていると言えるかもしれません。ただ、話数という各駅ではなく、キャラ毎のチャプターの快速列車になった事で、表現したかったテーマがよりダイレクトに伝わるようになっており、テレビを観ていなくても劇場版だけで必要十分な作りでしたね。これは表現の巧みさより、元々TV版が持っていたテーマとかメッセージ性の重みが非常に強いんではないでしょうか。2011年から少し2022年にチューニングを合わせるだけでここまで洗練できたんじゃないかなという感じです。

 

これ内容を細かく書けそうにないなぁ。今回は全体通して感じた事だけ書きます。

 

まずは前後編通して感じた率直な事。ノルニル(運命)から始まり、生存戦略をし(主に前編)、僕の存在証明で蠍の火に焼かれ、運命を乗り換えたあと、少年よ我に帰れと背中を押されて前に進み出す(後編、締めまで)、というそもそも提示されてはいたけど並べ直すだけで、より鮮明にピンドラの話になるんですね。(上手いこと言った様で分かりにくくなってるな…)愛されず運命に(親に)呪われた子供達が愛し愛されている事に気づく、伝える事で呪われた運命から逃れられた。そして彼らは歩き出す。伝えたい事は何も変ってない。きっと愛されず、何者にもなれないと迷ってる若者、透明になった子供達も多いはず。(若者の貧困は親の因果とかニュース見かけますし)大人から若者へのメッセージとして大変秀逸です。もう30越えたおっさんだから、僕なんかよりもっと若い人にこれが届けばいいなと思います。最後が我に帰れと言われてるのが今回の劇場版としてのポイントかと思います(結構生存戦略という強い言葉になりそうな程簡単じゃない事ですけど)。これはさらざんまいやユリ熊辺りでの話にもリンクしてくるかもしれない。

 

 

そして「愛してる」って言葉をこれでもかとピックアップしてたこと。シンエヴァと重ねずにはいられないのですが、寧ろ重ねてしまっていいと思っています。ほぼ同時期に影響しあったと噂の両監督が、この時代にまたも同時期に同じテーマが入った映画を見せてくれたのは、きっとそういう時代なんでしょう(ウテナとTV版エヴァもほぼ同時期でしたね)。もちろん恋愛ドラマの枠にとどまる話じゃない。それはラストの子供時代のキャラが集まるシーンを見れば分かるはずで、親に愛されなかった子供達が何者かになれた象徴的なシーンだったと感じました。TV版ではそこまでフォーカスはされていなかった様な気がしますが、確証はあまりないですね。不甲斐ない。見返してみないといけないですね。「愛してる」なんて、言葉としてはありふれているので、実は抽象的な話だと思うんですけど、この言葉に生存戦略、存在証明のメッセージを詰め込んで届ける為の前後編3時間弱だったと思います。

見捨てられそうな誰かを救うのは「愛してる」って事なんだって、惜しげもなく観客に叫んでくる作品でした。

 

 

そろそろ無理矢理締めましょう。

 

実写パートを見ながら強く感じたのは、アニメという記号論の極みみたいなメディアと相性の良い抽象的なメッセージ(今回は広義的な愛とそれによる救済)を現実に引き寄せたんじゃないかって事です。庵野さんがエヴァ旧劇でやった時、現実を突きつけアニメと現実の乖離だけで終わってしまった手法は20年以上の時を経て、創作と現実を繋ぐ為の架け橋になった気がします。

作品内容とは違うかもしれないけど、今作の実写パートは実験的でありながらアニメをアニメたらしめ、次に進めると言うなんとも矛盾しつつも意義のある事だったんではないかなと強く感じてます。

アニメなんか見るな、じゃなくて、あのアニメのように、現実や他人と向き合ってくれればって事なんじゃないか。それが愛し合う第一歩になるんじゃないかな。

願わくば多くの人が(自分も含め)このフィクションをリアルに感じて、現実世界と向き合い、愛し愛され、生存戦略し続けていけたらいいな。