エンタメは愛だ!

感想書く日記的なブログのつもりです

日本人キャストのミュージカルを見るファンとして

リトルマーメイドの実写映画のキャスティングで色々な意見が飛び交っているのが目につく。あまりこういったセンシティブな話題を書きたくないんですけど、ちょくちょく帝劇に足を運んでいたミュージカルファンとして、少し思った事を書いておきます。

 

人種問題に関しては日本とアメリカでは根底が違いすぎるので、日本に住んでる以上、有識者然として語る事はできない問題だと思ってます。今回のリトルマーメイドのキャスティングの良し悪しを語る気はないのですが、映画のキャラクターと俳優という問題は個人的に思う事がありまして。

 

日本でミュージカルを頻繁に見に行くと、特に東宝演劇を多く見ようとすると、日本オリジナルより海外の有名なミュージカルの日本版を見る機会が増えるように思います。(完全に個人の偏りによるモノですけどね…)1、2回ほど海外キャストの来日公演も見ましたが、歌声はともかく、英語ダメダメ人間には字幕を追うので精一杯になり、中々集中できなかったので、日本人キャストが日本語に訳されたナンバーを歌い、日本語で演技してくれるのは非常にノイズが少なく、海外の戯曲に触れられる機会としてすごく重宝します。

 

畏まって理由を書きましたが、正直な所、日本で見るエンタメは日本人が日本語でやるのは当たり前のような所があり、そんな事は他の国に行けば、その国の母国語になるだけの事だとは思います。

だから日本人がフランス人のマリーアントワネットを演じていても日本人からしたら何の違和感も無いわけで。最近韓国ミュージカルも盛り上がってるので、韓国人の方も同じだと思う。

 

ただ、日本人もアメリカ人も韓国人もだと思うけど、何故だか映画など映像作品になると、登場キャラクターと俳優の人種と母国語が合わなくなった瞬間めちゃくちゃ指摘する。他人事のように言うけど自分もよくある。なんか金髪のヅラ被ってカタコトの英語喋ってる日本人俳優出てきたw白人の方キャスティングすればいいのにwと思う事はある。

でも冷静になると日本のミュージカルは他国の人種、言語で書かれ演出された演劇を全て日本人、日本語に調整したモノを当たり前のように見ている。僕もそうである。(当たり前だと思えない人が多くて客層が固定されてるとか、そういう問題があるかもしれないが今回は見ない事にします)

 

これは何なんだ、とここ数年のポリコレ問題の度に思ってました。多分何も考えてないからこう問題になるんじゃないかと。

だから自分なりに考えてみて納得してみようとしてみたんですが、非常に難しい。書くの躊躇うくらいにはよく分からない。それでも整理も兼ねて書いてみますが。

 

まず1つ目はそもそも俳優の人種問題という点においては、その国の歴史によって抱えてる内容がまちまち過ぎる。日本における黒人の差別とアメリカのそれとは全く意味合いが違う。とあるYouTubeの動画で、黒人の方がアジアに暮らして感じた事を語ったインタビューを見たが、「アメリカの差別は、アジアで感じる差別とは違う。アメリカでは黒人というだけで日々の生活の安全が脅かされる。アジアの差別は差別というより、見た事がない人種への無知や間違った認識であり、正す事ができる。アジアではアメリカで感じることのなかった安心安全を感じる(超要約)」とまで黒人の方が語っていた。これが正しいとするなら、アメリカの映画業界で起こっているキャスティング問題は、日本人の推測だけで語れる領域ではなく、少なくとも日本人が「ポリコレ配役だー笑」、などといってはいけないレベルだと最近感じています。

 

次に俳優が役を演じる事と物語のキャラクターに関して。これは非常に難しい。日本のアニメを見ていると普通に外国の方々が日本語を喋ってくれるし、それでいて彼はアメリカ人だ、と視聴者はちゃんと受け入れる。ミュージカルも例えばベルサイユの薔薇であれば、オスカルとアンドレはフランス人でありフランス革命の時代を生きているが、それを日本人キャストが日本語で演じて感動するのである。そこに、フランス人がやらないとダメだ、という批判はほぼ聞こえない。(聞いてないだけかもしれない。そういう所の不安が解消されないから書いていて怖い)

ただ個人的に本当に申し訳ないが、映画でベル薔薇を日本人キャストでやったら笑うと思う。

でも何故か映画やドラマなどの実写映像作品にはそういう力があると思う。キャストと作中のキャラクターがどちらかによらない。シュレディンガーの猫の様に、俳優本人でもありキャラクターそのものでもある。リトルマーメイドの件もそんな気がする。俳優は黒人。キャラは白人。だから違う。中々黒人の人がアリエルを演じているだけ、とは言ってくれない。

もちろん見る人が何を重視しているかによって意見が変わってしまうが、黒人の俳優さんが白人のキャラクターを演じてもいいんじゃないかというのが僕の中にはある。少なくとも日本人としてはその事自体を否定してはいけないんじゃないかと。日本人はみんなオスカルを演じてはいけない事になってしまわないかと思うんですよね。

アメリカに住んでいるわけではない、ただの日本住みの日本人でしかない僕には分からないが、シカゴを米倉さんがやった事例もあるので、アメリカでもミュージカルで別の人種の方が演じる事が、絶対ダメって事も無いはず。

だから少なくともリメイクなんかの映画作品なら俳優の人種が変わる事はいいんじゃないかと思わなくもない。

 

これだけ書いておいて最後にちゃぶ台返しみたいな事言っていますが、書きながら考えいて思ったのが、映像作品の強制力みたいなもの。ミュージカルを生と配信で見る様になってより顕著になってるのが、カメラで撮る事の力の凄さかなと思います。

映画やドラマって俳優の演技力が大事だと思ってたんだけど、良くも悪くもそれを上書きする程の力をカメラって持ってるんじゃないか。

構図とか撮影処理とかじゃなくて、もっと単純な寄りとか引き、クレーンとかティルトとかそういうの。なんだったらワンカットっとか、ショットとか、映像が途中で切り替わる事自体凄い暴力的かも。

ミュージカルの生観劇って観客がそれぞれカメラマンだと思ってたんだけど微妙に違うんじゃないかとこのブログ書いていて思いました。自分で見たいモノを自分の目で見るのと、他人がコントロールしたカメラで撮られた映像を見るって、全然違う。当たり前の様でこれ凄く大事なんじゃないかなと。自分の目で見てるモノの情報は実はメチャクチャに多いし、見えてるけど見てないみたいなものがある。境界が曖昧。無限に続くんじゃないかという連続性がある。でもカメラは、画角に写ってるものが全てで、見ないものは見えない。見えてるものは嫌でも見える。この強制力は観客に曖昧さをなくさせるんじゃないかと。そうすると写ってるキャラクターは生の演劇以上に曖昧さが無くなるんじゃないか。肌の色の違いもノイズになっちゃうんじゃないかと。俳優が演じているという事実さえカメラに、監督の視線に消されてしまうんじゃないかと。

なんか雰囲気だけ書いたけど、全然言語化出来てないな。これは別の機会に考えます。

 

長くなったけど、とにかく個人的にはなるべく俳優が演じているという事象の方を大事にしたい。というお話でした。演者の人種問題が無くなる日が来る事を願ってます。